スタッフブログ

インドネシア③ -心の友-

総務部  清田 哲生   

・仕事

仕事は主に有機化成肥料製造の品質管理で、その他には原料等の買付けも行っていました。肥料の原料にはZA・Urea・DAP・ZK・KCLや魚・カポック・ライスブラン・パームアッシュ(パームを灰にしたもの)・Guano(リン鉱石)・カニガラ等がありました。成分に応じて原料を選び、粉状や粒状やペレット状にして袋詰めにします。そして日本に輸出します。チッソ(N)、リン酸(P)、カリ(K)の成分は、866・888・743等がありました。工場で問題はよく起こっていました。成分割れ、納期遅れ、異物混入、重量不足等です。有機原料は使えば使うほど、成分割れのリスクが伴います。化成原料の成分は一定ですが、有機原料は安定しません。肥料登録をしている以上、登録されている成分は保証しなければなりません。成分割れは大きなクレームになります。(普通肥料を購入されることがある方は、肥料袋の裏を見て下さい。保証票が貼られています。) 魚は雑魚を仕入れます。いろんな魚が混じっていますから、成分割れが発生する可能性があります。Guano(リン鉱石)は石です。リン酸成分のある箇所とない箇所があります。上手く選別しないと、同じく成分割れが発生します。製造はほとんどが手作業です。初めて見たときはビックリしました。えっこれも手作業?!・・・。工場と言っても、想像される工場とは大きく違います。インドネシアは豊富な資源と安い人件費が利点ですから、機械を買って製造していては製品価格が高くなってしまい、競争力がなくなります。インドネシアは外国から輸入される機械にはかなり高い関税を課しています。日本で外国製機械を買うよりもかなり高くなります。インドネシア国内で製造された機械には、税金を課していませんので安いのですが、技術が遅れているために良い機械がありません。関税を高くしているのは自国の産業保護のためです。当然、手作業がゆえに問題が起こりやすいです。インドネシアの会社からは肥料製品を購入するだけで良いのですが、出来る限り良いものを仕入れ、良い取引先とするには品質管理が重要になり、常駐で品質管理を行っていました。私の前には前任者がいたのですが、私にこの役が回ってきました。英語もインドネシア語も喋れない状態で、どうしよう!?と不安でしたが、行ってみればなんとかなるものです。おかげで楽しい想い出がたくさん出来ました。

・インドネシア語

全く話せない状態なので、初めは大変でした。ジャワ島で話されているは主にジャワ語です。ジャカルタやビジネス(お店も含む)、テレビなどはインドネシア語です。外国語を学ぶには、喋る前に聞き取りが出来ないと前に進みません。この聞き取りに苦労しました。何を言っているのか、聞き取れないのです。原因は五十音に当てはめようとするからです。当り前ですが、五十音に当てはまらい音が多いのです。それが分かっていても、脳が勝手に当てはめようとするから、言葉が頭に残りません。すでにかなり脳が固くなっていたようです。柔軟な脳がないと外国語は上手くなりません。毎日家に帰ってから勉強をしていたら、そのうち少しづつですが、聞き取りができ、少しづつですが喋れるようになりました。

・コンビニ

初めの頃は、コンビニに行っても店員が何かを聞いてきますが、さっぱり聞き取れず幼稚園児状態でした。「あ~、う~、え~」。恥ずかしさを通りこしていましたが、どうしようもありません。お手上げ状態です。そのうちだいたい聞いてくることは日本のコンビニと同じなので、コンビニはすぐに慣れました。ただ、突発的な対応は出来ません。いつもと違ったことを言われると、すぐに「あ~、う~、え~」状態に逆戻りです。中華系のインドネシア人も多く、日本人と見かけは変わりません。また、スマランにも日本人はいましたが、街中のコンビニには来ません。スマラン市の人口が当時150万人で、日本人は200人くらいだったと思います。大手企業の駐在の方が多く、工場がある敷地内に住まれ、運転手付きの車で移動されており、ほとんど街中で見かけることはありません。だから、店員はインドネシア語やジャワ語が通じないこのインドネシア人はいったい何? また、欧米人もほとんどいません。スマランでは外国人は珍しかったです。なのでスマランのコンビニではカタコトの英語も通じません。

・ビザ

ビザは観光ビザのため、60日ごとに出国しなければなりません。シンガポールに毎回出国していました。スマランからシンガポールにはAirAsiaの直行便があり片道2時間ちょっとでした。運航便は1日1便なので、1泊2日で10回以上は繰り返していました。片道8,000円前後だっと思います。毎回、安いホテルを探して予約をしていました。当時、シンガポールの街は日本より清潔だと何かの記事で読んだのですが、私が泊まった安ホテルのある中華街はとても汚かったです。当時はどこでも綺麗ではなく、シンガポールが日本よりも綺麗なのは、観光地のみだなぁと感じていました。私が宿泊していた場所は、旅行でいくような場所ではなく、ホテルでもないので、ここでも言葉には苦労しました。旅行で行くようなホテルは値段も高く、それなりのサービスが受けれますので、喋れなくてもなんとかなります。しかしそうでないところでは、喋らないとなんともなりません。向こうからは助け船を出してくれません。恥ずかしいとかの話ではありません。伝わらなくても、とにかく喋ってみる。幸いシンガポールの英語(シングリッシュ)は、私にとって欧米人の英語よりは聞き取りやすかったです。3年目にはワーキングビザのKITASを取得しましたので、シンガポールには行かなくなりました。私の給料は日本の会社から出ているだけで、インドネシアの会社からは出ていません。インドネシアの会社は全くの別会社です。本来KITASの対象ではありません。私の前任者もインドネシアの会社に頼みましたが、先延ばしをされ取れませんでした。色々手続きが難しいからです。頼んでも取れないのが分かっていたので、インドネシアの会社の社長に、こちらですべてやるのでと、了解を得て収得に動きました。インドネシアで業者を探し、必要な書類を揃え、インドネシア語の検定テストを受けたり、シンガポールの業者のもとに行ったりと、難しい場面もありましたが収得出来ました。このKITASを持っていることは、いろんな場面で役にたちました。特に出国しなくても良くなったのが一番です。ただ、シンガポールはインドネシアに比べて都会です。たまに都会の雰囲気を味わうのは悪くはなかったです。(日本に帰国するのは1年に1度だけでした。) シンガポールからスマランに戻ると土臭い感をいつも感じました。それだけスマランは田舎だということです。スマランが嫌いという意味ではないです。シンガポールよりずっとスマランのことが好きです。

・バイク

移動手段はバイクです。鉄道は発達していませんので、あとの交通手段は乗り合いバスになります。アジアの各国と同じように、車よりもバイクが多いです。とにかく多いです。初めは125ccのスクーターに乗っていましたが、そのうちHonda CB150を6,000円/月で貸すよと言われて、そちらに乗るようになりました。さらに250ccに乗りたいなと思っていたら、ある日取引先の知人に何気なく250ccのバイクを持ってないか尋ねると、持っているとのこと。知人はいつも車で移動しているので、貸すよと言われ、10,000円/月ですぐに借りました。この借りたKawasaki  Z250は約2年乗りました。インドネシアでは、ナンバーは後ろと前にも付いています。多分、違反者が多く前からでも後ろからでも分かるようにではないかと・・・。日本ではバイクを運転したことがなかったので、初めはクラッチが上手く繋げなかったです。そのうちに慣れてきて上手く繋げるようになり、さらに減速時のシフトダウンが楽しくて楽しくて。毎日の通勤も遠方の商談も、バイクの運転が楽しくて、思うほど苦にならなかったです。

・Teguh

仕事は価格交渉等がありますので、日本で3年働いたインドネシア人を通訳として雇いました。会社からは「そっちで通訳を探してくれ。」と言われ、探せと言われてもどこを探せば?と困っているときに、運良く取引先の船会社の紹介で見つかりました。彼は日本で技能実習生として3年働き、インドネシアに戻ってからは日本で貯めたお金で大学に行き、卒業したばかりでした。これで安心だと思ったのも束の間で、日常会話はなんとかなったのですが、商談の場面では日本語が通じてないことが多々ありました。私が商談相手に質問をしても、商談相手からは予期しない答えが返ってきます。言い方を替えて聞いても、同じく意味不明です。通訳には「もし日本語が分からなければ、商談中でも分からないと、はっきり言ってほしい。」と何度も伝えていました。相手には伝わっているはずなのに、何故こんな回答になるのか?インドネシア人は回りくどい回答をするのが普通なのだろうか?それとも・・・頭が悪いんだろうか?(これはかなり失礼なのですが) かなりの期間悩みました。ある時相手が簡単な英語で話してきて、それに合わせて出来る範囲の英語でやりとりをしていると、話は上手くまとまりました。全く回りくどい回答ではなくそのままです。相手も同じようにおかしいなと感じていたようです。通訳の誤訳が原因でした。話の展開を理解していれば、誤訳も防げたとは思いますが、展開を理解する余裕が彼にはなかったのだと思います。今では笑い話ですが、当時は本当に困っていました。しかしその後、彼にはたくさん助けてもらいました。名前をTeguhと言います。当時私の会社は東銀座にあり、電話やメールで、腐葉土を探してほしい、ココナッツオイルを探してほしい、ホットヨガ教室のフロアの石を探してほしい等、指示が来ます。その都度ネットで調べて、それらしい会社にコンタクトを取り、2人で商談をしに方々に行きました。飛行機に乗って、時にはバイクで片道4時間の距離を飛ばして。ジャカルタ、ジョクジャカルタ、クラテン、スラカルタ、パティ、スラバヤetc。肥料以外は結局取引に至らないケースがほとんどでした。ただ、とても1人では出来なかったことです。彼がいたから会社の要望にも答えることが出来ました。日本人は私1人で、日本語が喋れるインドネシア人は彼1人です。商談相手に言葉が通じなかったり、仕事が上手くいかなかったりしたときには、辛く当たったことも多々あります。それでも辞めずに仕事をしてくれたことに本当に感謝しています。私が帰国することになったのは、工場で大きな問題が起きなくなったからです。それは、彼がいたから出来たことだと今でも思っています。彼は今もインドネシアで同じ仕事をしています。私の代わりに工場の品質管理等をしています。

インドネシア人あるあるを一つ。

日本人だと分かると、インドネシア人は自慢げに、

「【kokoro no tomo】を知っている、歌える」と言ってきます。

かなり自慢げに言ってきます。なんでそんなに自慢げなのだろう?と思うくらいに。

でも・・・・。

【こころのとも】って? 誰の歌?

五輪真弓さんの「心の友」でした。

日本ではそんなに売れてなかったと思います。

私は知らなかったです。何となく聞いたような気もしますが。

でも何故か多くのインドネシア人が知っていました。

調べてみると、

“インドネシアの若者向けラジオ関係者が、1983年に五輪真弓さんのコンサートで「心の友」を聞き、非常に感銘を受けて、アルバムを持ち帰りインドネシアで放送したところ、1985年にヒットしました。 インドネシアの中学校の音楽の授業の課題曲にもなったそうです。”

私もYou tubeで聞いてみましたが、本当に良い歌でした。

しかし、日本語の歌が多くのインドネシア人の心に響いたとは驚きでした。

多くのインドネシア人に愛されたことを、日本人として誇りに思いました。

これからも日本人に会ったら、自慢してください。

kokoro no tomo を知っている」と。

今回はここまでとします。